土俵際の法理としての「自由意思の法理」
現代における強行法の実効性は、国家権力(統合力)によって担保されている。従って強行法規の果たす役割は、各国における国家権力(広義、すなわちグラムシが言うところの歴史的文化的ブロックによるヘゲモニー装置としてのそれ)のあり様に応じて、かなり大きな性質の違いをもたらす。英米法系諸国と大陸法系諸国における法のありようの相違も、基本的には同じ要因によるものと言って良い。
今、我々が直面している国民国家=ネイションステーツの融解現象は、産業資本主義段階から金融資本主義、さらに情報資本主義システムの巨大な遷移に深く連動している。直近の出来事で言えば、”コロナパンデミック”現象とウクライナ紛争、それら出来事のいわば通奏低音であるドル基軸通貨体制の揺らぎの加速化、そしてさらに今後の情報開示によって明らかになるであろう各種の物事によって、ポスト資本主義、ネーションステーツの融解の流れはさらに加速し顕在化してゆく。
こうした事態においては、従来通りの役割を強行法が担うことは困難になる。労働者保護を最も中核的な理念とする現代労働法は、労働法が強行法であることを、その最大の実効性の担保にしてきた。本来、労働協約が、法律としての労働法を補い、あるいはそれに取って代わる役割を果たすというのが、20世紀労働法における協約自治論であったが、協約自治の最先進国であるドイツにおいてさえ協約自治の限界が露呈してきており、組合員組織率(日本では協約拘束力の及ぶ範囲が組織率にほぼ一致する)が20%を切る日本では、労働協約が強行的な労働法規を代替するための前提をそもそも欠いている。
日本では、強行法規の機能不全が進行するに伴って、働く人々・一般市民が企業社会における不法な力に直接的に曝露されるという現象が顕在化することになった。労働協約など中間組織における社会自主法が機能している場合、あるいは経営者の倫理的姿勢によってその被害はある程度軽減されるが、新自由主義とグローバリズムという資本主義の生き残りをかけた大運動は、従前日本の企業社会を支配していた企業倫理を破壊することで、上記の曝露現象を加速させた。
かくして日本の企業社会において、労働者が、健康にして文化的な生活を送るために必要とする最低限度の労働条件をはじめ、人間としての尊厳を維持するための最後の砦となる規範的根拠は、労働者個人の意思表示(法律行為)のみ、という状況が現出した。21世紀に出現したグローバルサウス、原生的労働関係は、まさにこの日本でも起こったのである。
以上が、最高裁判例における「自由意思の法理」が誕生し、目下急速な発展を見ている背景である。それは新自由主義とグローバリズムによって破壊された労働法の各法源に代替する最後の砦としての法的なセーフティーネットである。それは、強行法規や協約が担うべき労働者保護の機能を、それら法源がもはや機能しなくなる中で、使用者による不利益措置にノートは言えない労働者をギリギリのところで守る法理である。労働者が、解雇や雇止め、ハラスメントのリスクの中で、使用者からなされる不利益措置に対して、ダブルバインド的な苦渋の選択の中でノーとは言えなかったその帰結と責任を、労働者個人に全面的に負わせることの理不尽、不正義を糺す最後手段の法理と言ってもよい。
法律も、協約も、就業規則も、組合も同僚も、何も自分を守ってくれない中で、労働者が、人間としての尊厳を保持するため最後の気力を振り絞り発せられた正義を求める声を掬い取る法言語が必要であった。社会正義を求める声は、原告とその支持者、労働弁護士などの権利のための闘争を通じて「自由意思の法理」として具現する。権利闘争に支えられる形で、最高裁は、意思表示とその合致たる合意の中に、法的な倫理と公正のロジックを埋め込み、この土俵際の法理を創造した。それは、新自由主義とグローバリズムによって破壊された日本の企業社会における信頼関係を再興するための21世紀の法律行為論、契約法理である。
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