ギリシャ・ローマにおける“占有”と労働法、あるいは個人のかけがえなき生をめぐって ー木庭顕『誰のために法は生まれた』を読むー
団交権や争議権、児童労働の禁止、解雇制限法理、労働時間規制、均等処遇原則、ハラスメント制限etc,,,これらの法が、その起源を遡ればギリシャにおける占有の原理に辿り着く。こう言えば多くの方々は、??? であろう。
木庭顕『誰のために法は生まれた』は、こうした一見荒唐無稽とも思われる考えが、実は十分に検討に値する、いや、かなり確たる根拠をもつのではないかと思わせてくれるほどに、法学的なイマジネーションを掻き立ててくれる、実にエキサイティングな法学書である。学士院賞を受賞した『法存立の歴史的基盤』をはじめとするギリシャ・ローマの歴史研究と、そこで析出されたアルケーとしての”占有”の理論による法の分析を通じて、木庭教授は、社会科学としての法学・政治学における新たな高みに到達することに成功した。
率直に言ってかなり難解で、従来の法学や政治学の常識的な理解とも齟齬するところの少ないない木庭教授の著作。今回、木庭教授は、映画「近松物語」「自転車泥棒」や、ソフォクレスやプラウトゥスのギリシャ悲喜劇をめぐる高校生との対話を通じて、法と政治のクオリアが立ち上がる瞬間へと我々をグイグイと引っ張ってゆく。時々の社会とそこに生きる生身の個人が直面する困難、問題群を、遠心分離機にかけるように凝縮し、法と政治のコンテクストにおいて増幅して現前させるその手法は見事という他ない。
木庭教授は、個人とその自由(かけがえのないもの、取り換え不能なもの)の尊重、それを守るための規範的根拠を”占有”の原理に求めつつ、”占有”に基礎付けられる法は、最も弱い個人の立場に立ち、個人の犠牲のもとに自らの利益を追求しようとする徒党(集団)の解体を図ることにこそ、その究極目的があるのだとする。法というものが、統治の論理ではなく、個人のかけがえのなさという論理で説明されるということは、近代以降の政治システムにおける作法に属するものと思われがちである。フランス民法典やドイツ歴史法学でその頂点をみた近代市民法学。その淵源であるローマ法、さらに遡るギリシャの悲喜劇。そこに一貫して維持されて来た法的保護の対象となる価値、それが個人のかけがえなき生の営みであるという、従来の常識的理解からはかなり離れたストーリーが展開されている。
日本の労働法学においては、労働法の規範的根拠を、個人の尊厳、生命・自由・幸福追求を人権として定める日本国憲法13条に遡行し、労働者個人の権利の実現という観点から集団主義を特徴とする戦後労働法学を再構築しようとする試みが続けられている。労働の現場において、個人の自由を抑圧する集団、”徒党”は、まずは企業という組織であるが、仲間であるはずの労働組合や同僚達が、むしろ個人の自由を抑圧する”徒党”としての顔を見せることも少なくない。
日本においてそれは一般的なデモクラシーのアポリアという以上の日本社会に内在する病理としての側面をより強く持っている。そうした日本社会の病理に対する眼差しを内包させつつ、自己決定と法規制のアポリアをどのように解きほぐすのか、未だその難問に対する答えは見つかっていない。この問題は、結局のところ”実践的に解決するしかない“、という諦めにも似た思いを抱えつつ、なお理論的な手がかりを求めて、私は、かつて労働法(労働契約法)を、プロパティーおよびコモンズと関連づけて論じたことがある。
前者のプロパティーをめぐる議論は、労働契約上の労働者の権利について、労使間の契約によって生じる相対権たる債権的権利を超えた、対世的効力をもつ”絶対権“的な構成の可能性を模索し、人権論的に基礎付けようとする意図に出たものであった。契約法をプロパティーに基礎付けることについては日本の学会においてもある程度の理論的蓄積があるので、そのニュワンスはそれなりに受け止められる余地があったと思われるし、そうした発想を基に、解雇権や企業組織変動における雇用承継の問題について、(どこまで理解されているかはともかくも)その後も議論を継続している。一方、”コモンズ”の観点から労働法上の権利をかんがえるという試みは、労働者の権利に、共同性と場の論理、実践の論理を組み込むための手がかりをこれに求めようとしたものであり、その後も「市民法と社会法」のテーマとしてその問題意識は継続させてはいるものの、理論化には成功しておらず、互酬性や信頼原則の問題として辛うじて概念化したに止まっている。
この問題は、例えば近年における労働法学上のテーマとしては、有期・パート労働者の均等・均等処遇原則における、時間的・空間的な要素の位置付けという問題にも深く関わっている。労働契約関係は、それが契約関係である以上は、合意原則が基本原理となるが、労働者個人の精神的・肉体的自由(占有)を抑圧し、そのかけがえのない価値を毀損する場面では、法が契約関係に強行的に介入し、権力支配の正当化根拠に堕した契約的合意の違法・無効を宣言することになる。有期・パート労働者の均等・均衡原則において、このかけがいのない価値における超えてはならない一線が何処にあるかを見定めることは容易ではない。それは、それぞれに多様で複雑な法益状況の絡まりの中で、一人一人の労働者が、職場における労働=“占有”の実践を通じて獲得する価値との相関において、ケースバイケースで確定してゆく他ないものなのであろう。
木庭顯教授が一連のギリシャ・ローマの厳密な文献的考証を通じて析出した”占有”理論は、混沌の深みに埋もれそうになっている上記の労働法におけるプロパティーやコモンズ、信頼や互酬を軸とする社会法理に関する私の考察に、法史学的・法理論的な重要な示唆を提供してくれているように思われるのである。
個人の尊厳に定位する木庭教授の“法”理論は、かなりアプリオリな印象を受けることは否めない。日本国憲法の基本原理や近代立憲主義・人権思想としてこれを否定する者は少ないであろうが、木庭教授のように、ギリシャ以来今日に至るまで歴史を貫通する法と政治の一般的な定義として、個人のかけがえのない価値の保護を措定するということには、共同体主義的な思考伝統の強い日本ではむしろ躊躇を覚える向きが多いであろう。また、ギリシャ以降における人類の歴史において、法が現実にどのように機能してきたのかを振り返るとき、それはむしろ権力者による支配の道具としての側面がクローズアプされるであろう。だが、木庭教授の緻密な文献学的論証は、歴史的に政治や法のアルケーが立ちあがる瞬間を捉え、これを厳密に記述することを通じて、人間にとっての政治と法の意味するところを活写的に定義するもので、上記のような歴史上の経験的事実は、あくまでもその本来的定義からの逸脱、本来的な政治と法のあり方からは批判されるべきものということになるのであろう。
そうした意味で、木庭教授の政治と法の理論は、歴史的であると同時に、規範的な性格を多分にもつということができる。したがって、異なる文化や歴史的背景、経験を持つ特定の集団や個人が、木庭教授の上記の定義を共有しない可能性はもちろんあり、木庭理論に対抗するより普遍的な議論、反証の可能性はなお開かれている。それは今後、各々の論者が行えばよいことではある。だが、資本主義という史的システムの大転換(あるいは終焉)に立ち会っている21世紀の今、個人のかけがえのなさ、ということが政治と法の中核に置かれるというそのアプリオリは、おそらく今後ますます支持者を増してゆくように思われる。そのことは、木庭教授が、その難解な理論を希釈させることなく行った五日間5回にわたった授業を、高校生たちが日を追ってその関心を強め、胸躍らせて聞き入り、我先に発言した様子からある程度想像はつくのではないだろうか。