top of page

労働法とデモクラシー、あるいは二一世紀における労働基本権の法哲学的基礎づけ

 日本型雇用システムとこれを中核的な要素として成立している日本の企業社会、そこには一種神学的と言ってもいいような強固な構造化された規範意識、すなわちハビテゥス(Habitus、フランスの社会学者ブルデユーは、これを持続可能性を持ち、移調可能な心的諸傾向のシステムとした)が支配してきた。日本において労働法とデモクラシーを考える場合、この規範意識と向き合うことなしには、十分なリアリティーを持たない。

 ここでわれわれは、近代におけるデモクラシーを政治哲学的に基礎づけたジョン・ロックが、そのデモクラシー思想を、当時の世界を支配していた神学教義との格闘をへて体系化していったことに思いを致すことができる。

 ロックのデモクラシー論は、そのプロパティー論、すなわち自己労働にもとづく所有(占有としてのプロパティー)の理論と不可分であった。とするならば、労働者の権利保障、団結権保障を、自己労働にもとづく所有(占有)の論理により労働者の個人の尊厳を回復するもの、と理解することで、「労働法とデモクラシー」の新たな地平が見えてこないであろうか。

 資本主義的な生産様式のもとにおいては、労働者がその労働を通じて生み出す生産物やサービスは、当然に、企業・使用者の所有に属する。しかし、日本のワーカーは、自らの労働や、その労働を通じて生み出されたものに対して、商品的財貨物としての価値以上の価値を見出す傾向が強く、実は、それが日本の製品やサービスの質の高さを担保してきたものであった。日本の等身大の労働者におけるそうした素朴な規範意識こそが、労働をめぐる正義の言説が依拠すべき母体である。われわれは、この自己労働にもとづいて生み出された生産物・サービスについて、これを所有ならぬ占有の論理を通じて、再定位する必要があるのではないか。労働法における社会的な自己決定としての団体交渉、協約自治、共同決定制度、それらを労使の協働的な占有として捉え直し、労働者集団と使用者の占有関係、原権としての生産物に対する所有関係の調整メカニズムとして理解するときに、二一世紀における労働法の新たな姿が仄見えてくるかもしれない。

 産業デモクラシーは、法制度的、現象的には二〇世紀の社会権的基本権として現象するが、法原理的には、個人の尊厳と自己労働にもとづく所有(占有)の論理にもとづく市民法原理に立ち返ってこれを基礎づける必要があるように思われる。それは、ニクラス・ルーマン的な表現を用いるならば、二一世紀における社会の複雑性の高度化に対応して、社会法と市民法のより高次の関係性を解明し、その関係の関係化様式を確立することで社会の複雑性を縮減する、という課題であると言っても良いかもしれない。

 いわゆる労働基本権の自由権的理解は、古典的な自由権カタログとの親和性を強調することでは尽くせない独自の性格を有している。それは、法原理的に言うならば、二〇世紀から二一世紀への過渡期である今日、自由権と社会権の相即不離性、相互補完的な関係性であり、その内的規範構造の解明のためには、自由権と社会権の根底にある、より包括的な基本権としての個人の尊厳と幸福追求の権利を定める日本国憲法一三条に立ち返って労働基本権を理解する必要がある。そして、日本国憲法一三条は、ドイツ基本法で言えば、人間の尊厳、人格の自由な発展に関する基本権に相当し、英米の法思想に即してみれば、ロックのプロパティー論に遡ることができる。

 ロックには、神に対する人間の義務と他の人間に対する人間の権利とを常に相関させる思考様式があった。ロックは、自然状態の人間は、神に対して「自己を維持すべき」義務を負うからこそ、自分の存続を脅かす人間に対して「平和と全人類の存続を目的とする自然法」を執行し、場合によってはその人間を殺す権利を持つと語っている。ロックの人権論に見るこうした神学的基礎付けを、人間社会における歴史文化的なハビテゥスとしての精神的公共性の問題へと転換し、二〇世紀における実定法の論理として具現化したものが、一九一九年ワイマール憲法一五三条三項における「所有には義務が伴う(Eigentum verpflichtet)」であり、団結権やその他の社会権、社会国家原則もその延長線上にあるように思われる。

このように考えれば、その二〇世紀システムが巨大な変容を見せつつある今日、労働基本権等の実定法としての社会権的基本権の法原理的な基礎を、自己労働にもとづく所有(占有)の論理に遡求することは、至極自然なことのように思われる。市民法的な原則が曖昧なまま、もっぱら国家による保護、給付を求める輪郭のはっきりしない権利として理解され、その結果、高度化複雑化(それして同時に空疎化)する資本主義的所有権への譲歩と後退を余儀なくされてきた、とくに日本における社会権的な基本権の履歴を考えたときに、二一世紀の労働基本権を構想する場合には、そうした思考プロセスが不可避であるように思われる。これは、例えば、不当労働行為における使用者概念の外延問題や、労働基本権行使に係る戦後最大規模の刑事事件である関西生コン事件の争点でもある、企業の取引先等第三者への団体行動の正当性問題に通じる理論課題でもある。

 日本国憲法は、団結権・団体交渉権・争議権を含む団体行動権等の勤労者の労働基本権を「侵すことのできない永久の権利」として保障しており、一連の労働政策、労働立法は、この憲法の制約を受ける。これに対して、たとえば、アメリカの一九四七年労使関係法(タフト・ハートレイ法)などは、円滑な州際取引の促進や交渉力の均衡による購買力の向上といった政策目的を重視して労使関係をとらえており、不可侵の基本権という発想は乏しい。

労働者の権利を、ロックのプロパティー論と相即不離の、神学的な義務論の延長線上において理解するならば、すなわち、人間社会における歴史的文化的なハビテゥスとしての公共性に関する法、コモン(共)に関する法(コモン・ロー)として理解するならば、個人としての労働者の権利の不可侵性を定める日本法は、本来、アメリカ法に比べて、むしろ広義のプロパティー(生命・自由・財産、幸福追求の権利)に基礎づけられる近代市民法の思想伝統により親和的であると評することも不可能ではないように思われる。

 しかし、この法原理的な基礎づけが、実際の実定法規範としての承認を受けるためには、自己労働にもとづく所有(占有)の理念を、具体的な社会関係の中で法的な権利義務関係へと具現化するための規範意識の成熟と社会的・政治的な運動が不可欠であり、ここにデモクラシーの論理が介在することになる。この理は、ロックが、自己労働にもとづくプロパティー(占有)を、デモクラシーの論理によって統治の論理へと媒介したことと相似をなしている。

 今日の労働運動、労働組合運動が長期低落の傾向から脱することができず、混迷の度を深めている理由は、もともと個人の尊厳に発する自己労働にもとづく所有(生命・自由・財産としてのプロパティー、占有)の理念が有する倫理的な基礎が等閑視され、経済的な利益に主導された取引のための圧力団体、機能集団へとこれが変質したこと、その結果、グローバル化とITC革命を軸とする技術革新に伴う経済社会構造の変化と企業組織のネットワーク化のなかで、そのバーゲニングパワーを喪失させるとともに、労働者、ワーカーに対する求心力を失ったことに原因している。

 労働組合を、労働者の自己労働にもとづく固有権の実現母体として理解し、その組織原理においては民主主義、根源的な民主主義の論理を貫徹させる必要がある。そしてこれを基礎として、共有されるべき価値としての企業社会のコモンズ(Commons)を守り育てるという点での新たな労使の協創関係を築いてゆく、これが二一世紀のハビテゥスとしての民主主義を体現するユニオンの基本的な姿、方向性となってゆくように思われる。

【追記】

 本稿の主張の詳細は、本年三月に大阪市立大学法学部とフライブルグ大学法学部が共催するシンポジウム「法とデモクラシー」において公表予定であったが、折からの新型コロナウイルス感染症の拡がりに伴い、同シンポジウムは中止のやむなきに至った。

yonezu takashi
bottom of page