”Follow the science”と法


 今回のコロナ”パンデミック”については、日本国憲法13条(個人の尊厳)をコアとする、いわゆる社会権的基本権と自由権的基本権の20世紀的なダイコノミー(叉状関係)が21世紀におけるその進化を遂げるにあたって直面する新たな問題状況の典型事案かもしれない、との仮説のもとに、法の科学Rechtswissenschaftの視点から観察を行なってきた。そうした中で、今回のコロナ対策において繰り返されたのが、重大な政策決定や人々の判断・行動に当たっての、“Follow the science”のスローガンである。


 米国のコロナ・ワクチン政策を主導してきたファウチ博士はじめ、多くの医学関係者がそう語り、政治家や官僚、そして多くの国民・市民もおおむねこのスローガンに盲目的に従ってきた。しかし、この間におこったことは、権力やマスメディアにサポートされた一部の医学的な権威者・組織の主張のみが”科学的”であり、それら”権威ある科学的見解”と矛盾する経験的事実や研究調査結果を無視、あるいは虚偽であるとして排除しようとする同調圧力の席巻であった。特定の医学的権威者の主張が過剰に誇張され、医学的知見からは相対的に独自になされるべき公衆衛生をはじめとする社会政策に関する判断の透明性や納得性は蔑ろにされてきた感が強い。新型コロナウイルスや、それへの対処策としての新たなワクチンについては、未知のことがあまりに多く、そのリスクや有効性をめぐっても様々な見解が日々発表される中、各種情報が入り乱れ、混沌とした様相を呈している中では、権威者の見解を、唯一正しい”科学的知見”とすることは、むしろ非科学的な態度という他ない。


 そうした状況の中で、いずれの見解を採用するのかは、結局のところ、社会科学的な知見を踏まえつつ、政治家・政策当局者・有権者の熟慮に基づく判断による他ない。従って、未だ経験したことのない今回のような、従来の経験則があまり役に立たない未知の問題への対処方法を巡って見解が錯綜する中で、”follow the science”と叫んでみたろことで、政策当局者や実施者、そして個人が、その責任において下すべき各々の判断のあり方が、一義的に定まるわけではない。


 そのような状況の下で何よりも重要なことは、複数存在する、相対立する科学上の見解について、それらの内容をわかりやすく国民・市民に伝え、議論を起こし、国民・市民自身が納得の上で判断・選択し、行動することができる情報を提供することである。国民・市民の生命・財産・幸福追求、将来に関わる重大な政策的決定が行われるとき、そして科学によっても一義的に正しいとされる政策が打ち出せない時、対立する多様な見解をめぐる公論を興し、熟議を尽くすことが、政府・政党・メディア・アカデミーには求められる。しかし、今回は真逆の事態が発生した。公論を興すべき政府・政党・メディア・アカデミアは、巨大製薬会社、米国CDC・FDAやそれらと関係の深い組織に近い特定権威筋の見解のコピー、宣伝機関と化した。コロナをめぐる情報統制、言論封殺の凄まじさは前代未聞の水準のものであり、”緊急事態”における緊急対応という言い訳も説得力がない。


 ワクチンをめぐる接種・非接種の判断は、直接的に自分や自分の子どもの生命健康に直結する。この重大な判断を、しかも一人一人の国民・市民が全面的に自己の責任(自己責任)において行わなければならない。その判断の難しさや過酷さに耐えきれず、もはや”考えない”ことにした人も少なくはないだろう。


 今回、巨大製薬会社をはじめとする巨大利権に近い立場にある”権威ある”人物や組織の見解が、ほぼ一方的に”科学的に正しい”見解とされ、世界各国の政府や医学関係者がこれに”従う”という状況が現出した。あたかも世界政府が現出したかのごとき、今回起こった上記のような現象は、近現代の公衆衛生政策、医療行政において、おそらく前例のないことであるように思う。新聞・テレビなどのマスメディアのみならず、YoutubeやツイッターなどのSNSまでもが、”follow the science”のプロトコルに従い、疑問や異論を発するものをデマゴギーとしてファクトチェックの名の下に検閲、その言論を封殺した。


 ”パンデミック”に伴うメディアの煽りで人々がパニック状態に陥る中、コロナ政策を巡って行われていることが、いかに常軌を逸したことかが認識され議論される機会を失ったまま、現在にいたった。この間、急速に成長してきている新興のSNSを通じて、世界各国の大学や研究所をはじめとする科学者、研究者の研究調査結果が、多くの人たちに徐々に知られるようになり、一年前には”陰謀論”や”偽情報”とされた疑問や懸念が、実はかなり根拠のあるものであったことが、次々に明らかになり、ここにきて大手メディアも取り上げざるを得なくなりつつある。そして、人々による草の根からの異議申立てが世界の各地に起こるようになり、今やそれは燎原の火の如く世界に拡がり続けている。


 5歳から11歳の子どもへのワクチン接種がまもなく始まろうとしている。コロナ感染によっても、子どもは重症化しにくく、日本では10歳以下のコロナによる死者が一人も確認されていない中で、今後ワクチン接種によって多くの子どもが重篤な副作用や重い後遺症に苦しむ、さらには死にいたる蓋然性がデータ上明らかであり、さらに将来における子供への影響も不明なまま、子どもへの接種を行うことが妥当なのか、経験則や社会的常識に照らして考えれば誰もが出すであろう結論を口にすることが憚られるという異常な状況がある。


 法的な事実認定は、「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、 経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる」(最高裁、s50.10.24 民集 29.9.1417)。 子どもへのワクチン接種については、一部の医学学会もこれを推奨しているようだが、そのことと、その”専門的な知見”に基づく政策当局者・政策実施者の判断と行動が果たして本当に法的あるいは道義的に正当化可能なものかどうかは、別次元の問題に属する。個人的には、日本における5歳から11歳児童へのワクチン接種は、比例原則に基づく(法的な)審査に耐え得ない可能性が高いのではないかとの疑義が拭えないのだが、右の審査の前提は、様々な科学的知見についての情報公開とメデイアにおけるその公正な報道であり、また一般人がその社会経験則に基づきつつ確信を持ちうる程度の事実関係に関する行政や医師による情報提供・説明である。インフォームド・コンセントは、倫理的責任であると同時に、法的な責任でもある。労働法の領域では、同調圧力の下における不利益措置について、労働者が法的に有効な同意を行なったというためには、その同意行為が、「自由意思に基づくと認めるにたる合理的な理由が客観的に存在すること」が求められるというのが最近の最高裁判例である。この「自由意思」の考え方は、生命・身体・健康という重大な法益がリスクに晒される医師による身体侵襲行為に対する”同意”についても、基本的に妥当する理ではないかと思われる。


 私は、ワクチン接種に積極的なある著名医学者のFacebookをフォローしているが、そこでは海外の医学雑誌の紹介が盛んになされるものの、そこで紹介される論文の内容と平仄の合わない研究調査や事実、ワクチンに関するネガティブ情報にはあまり言及がなされず、また一般市民が抱く素朴な疑問や懸念に対しては、陰謀論として一蹴するかの如き対応がなされる場合がある。当該の医学者やその見解を支持するフォロワー(の医者)たちには、”医学的権威者の言うことに一般人の素人が口を挟むべきではない”との考えがあるのか、と疑われても仕方がないような書き込みが散見されるのである。それは接種をした人たちの安心を求めるニーズには合致しているのだろう。しかし、5歳から11歳の子どもへの接種が始まろうとする今、医師、世論にも影響力を持つ医学的権威者の姿勢として適切なのか、インフォームド・コンセントの責任を果たすべき医師への情報発信のあり方としてどうなのか、疑念が拭えない。


 21世紀における法的正義は、法的な議論(ディスコース)をその不可欠の要素として組み込む、というのが現代法理論の知見である。今回の”follow the science”という呪文に呪縛されたまま、人々が権威者の唱える説に服従させられ、その生命・自由・財産をリスクに晒すという状況は、この21世紀的な法的正義論の共通了解に反する事態である。

 一法学徒である私には、医学的な議論の理解には限界があり、例えば一橋大学法学部の仮屋広郷教授のようにな大胆な議論を展開する勇気も能力もないが(仮屋 広郷 コロナ・パンデミックの振り返りのために――制度のダイナミクスを見るための補助線」法律時報 93巻11号70-78頁 2021年10月)、今後、コロナ、とりわけワクチンをめぐっては、世界的な被害者救済、権利運動の進展とともに、広く法学の世界における議論が進んでいくことは間違い無いだろう。


yonezu takashi

社会法研究者