

会社という「共同体」の限界――21世紀の労働法が解き放つ「団結」の真意
1. 導入:私たちはなぜ「会社」に縛られ続けているのか 現代のビジネスパーソンの多くは、どこかで「会社は自分を守ってくれる聖域」という幻想を抱きながら働いている。しかし、現実に目を向ければ、賃金は停滞し、労働分配率は低下の一途をたどり、いざという時の交渉力すら失われている事実に直面するはずだ。 このギャップの根底にあるのが、日本独特の「企業共同体主義」という名の見えない檻である。かつてこの価値観は、雇用を守る強固な盾として機能していた。しかし、社会構造が激変した今、それは労働者の正当な権利を会社の内側だけに閉じ込め、実質的な交渉を阻む「構造的な罠」へと変質している。私たちは、20世紀型の成功モデルが作り上げた「制度的疲労」のなかに、自ら進んで閉じ込められているのではないか。 2. 「会社は家族」という美学の正体:日本資本主義の「ハビトゥス」 日本の労働現場に根付く「会社は家族」という感覚は、単なる精神論ではない。それは、私たちの身体に深く染み付いた「ハビトゥス(無意識の社会的習慣)」である。経済史の視点で見れば、鎌倉新仏教から広まった「勤勉・正直


日本国憲法28条の「勤労者」
労働基本権を定める日本国憲法28条の「勤労者」とは誰のことをいうのか。それは雇用された労働者のことだ、というのが日本の団結権立法史を踏まえて戦後労働法学において共有されてきた一般的な理解であった。このほぼ自明視されてきた理解が、今大きく揺らいでいる。 フリーランスなど雇用によらない働き方をする人々の存在に注目が集まるなか、雇用労働と自営業の間にあった境界の自明性が消失しつつある。目下進行中のプラットフォーム経済、A Iの破壊的とも言える影響は、20世紀の経済社会における各種の自明性を次々と解体し始めている。 実は、法解釈学における認識とは相対的に独自に、戦後ある時期までには、日本国憲法28条の勤労者概念、あるいは労組法における労働者について、失業者のほか、小作農民や個人自営業者も排除されないとの理解も有力に存在した(沼田稲次郎『日本労働法論・上』1948年、同『労働法論・上』1960年)。 実定法解釈とは位相を異にする実践哲学をベースとした沼田の法科学的な嗅覚は、現代労働法の生成・確立期である20世紀の労働法のみならず、さらにその動揺と解体


新型コロナ対策と法治主義
コロナ禍における各種の対策においては、法治主義の原則が軽視された。9月の日本産業保健法学会で私が座長を務めるセッションで登壇いただく磯部哲教授(慶應大学法科大学院)は、当時内閣官房に設置された対策分科会(尾身会長)の委員として、政策決定の中枢にありながらこの問題を指摘し、人...










